明治43年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出され、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で、当時の世界記録を27分も縮める2時間32分45秒の大記録を樹立します。
そして、明治45年に開かれた日本初参加の第5回オリンピック(ストックホルム大会)。マラソン競技の当日は猛暑に見舞われ、68人の選手のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三も日射病により、26.7キロ地点で意識もうろうとなり近くの民家で介抱されることになってしまいます。
こののちも、世界記録を更新し最高の状態のときに迎えようとした第6回オリンピック(ベルリン大会)は、無念にも第一次世界大戦のために中止となります。続く第7回のアントワープ大会でもメダルを期待されながら惜しくも16位に終わり、33歳で迎えた第8回パリ大会では、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で意識不明となり途中棄権。このように、四三の3度のオリンピック出場は自身にとって決して満足の行く結果とはなりませんでしたが、常に日本の先頭に立って走り続け「負けても負けてもくじけない粘り強さ」は私たちへの教訓だと思います。
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金栗四三翁 |
昭和20年に帰郷し、熊本県体育協会の発足に尽力。翌年同協会の初代会長に就任。同23年には熊本県の初代教育委員長に就任します。その後、紫綬褒章や勲四等旭日小綬章を受章。同35年には本県で開催された第15回国民体育大会の最終聖火ランナーも務めました。
同42年、四三が75歳のときに一通の手紙がスウェーデンオリンピック委員会から届きます。それは、第5回オリンピックの55周年記念祝賀行事への招待状でした。四三は感激し、喜んでストックホルムへ向かいます。
用意された“舞台”は、半世紀の時を超えストックホルムスタジアム。四三は、ゆっくりと一歩一歩駆け足でゴールを目指します。 「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。記録は、54年8ヵ月6日と5時間32分20秒3であります。これで第5回オリンピックストックホルム大会はすべての日程を終了しました。」
割れるような拍手とともに場内アナウンスが流れたとき、万感の想いが四三の胸をよぎったことでしょう。
昭和58年11月13日 92歳で永眠