腹切り坂(国指定)最終更新日:2013年07月01日
概要


【腹切り坂の話】◆その1
約800年前、源氏と平氏とが天下を分けて戦ったが、平氏は壇ノ浦で敗れて、大方は討ち死にし、残った者は落ち武者となって、散り散りに九州の各地を逃げ惑っていた。しかし、源氏の追討は厳しく、草の根を分けてでも平氏の落ち武者狩りを断行したため、平氏の多くは各地を逃げまどう途中で討たれたり、あるいは病に倒れたりした。 ある日、野を越え、山を越えて逃げ延びた落ち武者の一団が、この険しい坂道に差しかかった際、風にそよぐ木の葉の音にも、すわ源氏の追討かと驚き恐れ、心身共に疲れきって、重い足を引きずりながら登っていく。 一行の中に、矢傷を負い家来の肩を借りながらここまで歩いてきた武将がいた。坂の途中で一同を止め、「もうこれにて余が武運は尽きた。一足先に今度の戦いで散った一族のいる黄泉(よみ)とやらに行かせてもらう。皆は達者にて生き延びてくれ。」と言い、遥か壇ノ浦とおぼしき方角を伏し拝み、西方浄土への来迎にあずからんと、西に向かって念仏を唱え、見事腹を切って果てたという。 この痛ましい武将の名は残念ながら残っていないが、村人たちはここを「腹切り坂」と呼ぶようになった。
【腹切り坂の話】◆その2
昔、ある飛脚は、その日のうちに熊本の細川家に届けなければならない江戸からの大事な書状を預かっていた。彼は南の関で食べた物が悪かったのか、腹が痛くなり、何回も道端で用を足しながら、きりきり痛む腹を押さえ、岩村から永ノ原に登る坂道にようやく差しかかった時は、足はふらふらで脂汗を垂らしながら、意識は朦朧(もうろう)としており、這うようにして坂の途中までたどり着いたが、性も根も尽き果て地面に倒れ込んでしまった。 そこへ野良帰りの農夫が通りかかったので、飛脚は、「ここから頂上まではどのくらいあろうか。」と尋ねたところ、農夫は、そこがちょうど坂の中間付近であったので、「貴方がこれまで来た道程はありましょう。」と答えた。飛脚は江戸から300里の道を駆けて来たことをそのまま受け止めたために、勘違いして大変なショックを受けた。 そのとき、岩村の光行寺で打ち鳴らす入僧の鐘がいんいんと聞こえてきて、もはや今日中にこの書状を熊本まで届けることが絶望となったことを悟った飛脚は、農夫から鎌を借りるやいなや自分の腹を切って死んだという。
詳細
アクセス情報
和水町岩