箱根駅伝の創設
後進の育成のために
金栗はストックホルム大会の大敗後、日本マラソン界の発展に尽力します。「オリンピックで日本を強くするにはマラソン選手の育成すること。一度にたくさんの選手を作るには、駅伝競走が最適だ。」と駅伝創設を呼び掛け、それに応じた早大、慶大、明大、東京高師の4校によって、1920年(大正9年)に「四大専門学校対抗駅伝競走」の名称で第1回大会が開催されました。これが新春の風物詩となった箱根駅伝のはじまりです。なお、金栗はこの時、28歳であり、現役中に箱根駅伝を創設したのでした。
箱根駅伝最優秀選手賞
「金栗四三杯」
第80回大会から最も活躍した人に贈られる「金栗四三杯」。これは金栗が1911年のオリンピック国内予選大会で受賞した優勝カップを複製したものです。「金栗四三杯」には「世界に通用するランナーを育成したい」という金栗の想いが宿っています。
