終章
54年余をかけての大記録
金栗は世界陸上競技史に類を見ないマラソンの大記録の持ち主でもあります。
1912年のストックホルム大会で行方不明扱いとなった金栗ですが、月日は流れ、金栗が76歳となる1967年(昭和42年)にストックホルム大会開催55周年を記念する式典が開催されました。当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、金栗が「(棄権の意思が運営側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気が付き、金栗をゴールさせるため、記念式典に招待しました。金栗はそのことにとても感激し、喜んで参加したのです。
記念式典当日、大観衆の競技場を金栗が走り、テープを切ったとき「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年と8か月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされました。これに金栗は「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子どもと10人の孫に恵まれました」と答え、会場は大きな感動の拍手と歓声で包まれたそうです。
この記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録とされていますが、金栗が「レース途中で力尽きた自分を介抱してくれた地元の方々に感謝し、長年に渡って交流を続けてきた時間」であり、「オリンピックでの大敗の悔しさをバネに日本マラソン界の向上に尽力した記録」であるといえます。
駆け抜けた人生
金栗は現役中から、日本初の駅伝「奠都( てんと)50周年記念東海道五十三次駅伝競走(京都~東京)」や「東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)」の開催に尽力し、師範学校教師、熊本県体育会(現熊本県体育協会)初代会長、熊本県初代教育委員長など生涯にわたってスポーツの振興・発展に力を注ぎました。また、金栗が生涯に走った距離は約25万キロ、地球6周と4分の1といわれ、金栗の残した有名な言葉として「体力、氣力、努力」がよく知られています。
熊本県の田舎・和水町に誕生した金栗は、ひ弱な幼少期を経て、「かけあし登校」でマラソンランナーとしての基礎を築き、上京後、その才能を発揮。「日本スポーツ界の黎明の鐘」となるべく、日本のオリンピックの扉を開き、大敗を喫しながらも日本マラソン界・スポーツ界発展のためにその生涯を捧げました。そして、昭和58年11月13日、92歳で文字通り駆け抜けた人生に幕を閉じました。

参考文献 長谷川孝道『走れ二十五万キロマラソンの父 金栗四三伝』