誕生~少年時代
金栗四三の誕生

熊本県北西部、福岡県との県境に和水町(なごみまち)という自然豊かな町があります。
金栗四三は、1891年(明治24年)の夏、この和水町(当時は春富村)の中林というところに、8人兄弟の7番目として生まれました。父が43歳の子であったことから「四三」と命名されたそうです。
今でこそ、「日本マラソンの父」と称されますが、5歳頃までは異常体質と言われるくらいひ弱な子どもだったとのことで、特に2歳の頃までは夜泣きをしては家中の者を困らせていたという逸話が残っています。
マラソンの基礎を築く少年時代
そんな四三も10歳となる年の1901年(明治34年)には、玉名北高等小学校(現南関第三小学校)の進学をきっかけに、自然とマラソン人生の基礎を築く「あること」が始まります。その「あること」とは、自宅から学校までの山坂を越える往復約12キロの通学路を、近所の生徒たちと毎日走って行き戻りする「かけあし登校」のことです。のちに本人も「マラソンの基礎は、小学校時代に(片道)一里半の通学を行った事である。」と語っており、この自宅から学校までの通学路は「金栗ロード」と呼ばれています。
「かけあし登校」の高等小学校を卒業した後、勉学のできる四三には、さらに十分な教育を受けて欲しいとの家族の支援もあり、1905年(明治38年)には玉名中学校(現玉名高校)に進学。家族の想いに応え、特待生となるほどに成績はとても優秀でした。そして、1910年(明治43年)には、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学し、マラソンランナーとして大成していくのでした。