才能を開花
マラソンランナー金栗四三
東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した金栗は、次第にマラソンの才能を発揮し始めます。
1年生の時、秋の校内マラソン大会で上級生を抑えて3位に入り、講道館柔道の創始者としても知られる校長の嘉納治五郎に一目置かれる存在となります。
そして、翌年の1911年(明治44年)第5回オリンピック・ストックホルム大会(スウェーデン)に向けて、日本初のオリンピック国内予選大会(25マイル)が東京・羽田で開催されました。この大会で金栗は、当時の世界記録を27分も上回る2時間32分45秒の大記録で優勝し、周囲を驚かせます。このことにより、金栗は初のオリンピック日本代表選手に選出され、嘉納校長からその知らせを受けます。しかし、金栗は「先生、私には荷が重すぎるようです」とはじめは代表を固辞。それでも、嘉納校長の「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」という熱い説得に感動し、日本のオリンピックの扉を開ける決意を固めるのでした。
