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金栗四三 「体力 氣力 努力」

社会教育課 TEL:0968-34-3047 FAX:0968-34-2033 メール syakai@town.nagomi.lg.jp

 
 

「体力」とは心身の健康

「氣力」とは初志貫徹の意志力

「努力」とは忍耐の継続

まさにカナクリズムの真髄である

  

  

熊本県北西部、福岡県との県境に和水町(なごみまち)という自然豊かな町があります。

金栗四三は、1891年(明治24年)の夏、この和水町(当時は春富村)の中林というところに、8人兄弟の7番目として生まれました。父が43歳の子であったことから「四三」と名付けらたそうです。

今でこそ、金栗は「日本マラソンの父」と称されますが、4~5歳までは異常体質と言われるくらいひ弱な子どもだったそうで、特に2歳の頃までは夜泣きをしては家中の者を困らせていたという逸話が残っています。

吉地尋常小学校を卒業した後、金栗が10歳の時に玉名北高等小学校(現南関第3小学校)に入学。自宅から学校まで山坂の難所を越える往復約12キロの通学路を近所の子どもたちと毎日走って行き戻りする「かけあし登校」を卒業までの4年間続けました。金栗のマラソンの始祖であった自宅からの通学路は「金栗ロード」と呼ばれており、本人も「マラソンの基礎は、小学校時代に(片道)一里半の通学を行った事である。」と語っています。

「かけあし登校」の高等小学校を卒業した後、金栗に十分な教育を受けて欲しいとの家族の支援もあり、1905年(明治38年)には玉名中学校(現玉名高校)に進学。家族の想いに応え、成績はとても優秀でした。そして、1910年(明治43年)に東京高等師範学校(現筑波大学)に入学し、マラソンランナーとして大成していくのでした。

 

rinnku金栗四三の生い立ち



 

金栗四三 幼少期 家族 写真4nenn

※四三が幼少期の頃の金栗家(四三は下段右から2人目)

※玉名中学校(現県立玉名高校)4年生のとき

 

 

 

 

東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した金栗は、次第にマラソンの才能を発揮し始めます。

金栗が20歳となった1911年(明治44年)。第5回オリンピック・ストックホルム大会(スウェーデン)に向けて、日本初のオリンピック国内予選大会(25マイル)が東京・羽田で開催されました。この大会で金栗は、当時の世界記録を27分も上回る2時間32分45秒の大記録で優勝し、周囲を驚かせます。

このことにより、金栗は初のオリンピック日本代表選手に選出され、嘉納治五郎校長からその知らせを受けます。しかし、金栗は「自分ごとき山猿が・・・」とはじめは代表を固辞。それでも、嘉納校長の「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」という熱い説得に感動し、日本のオリンピックの扉を開ける決意を固めるのでした。

そして、オリンピック大会本番。金栗は、17日間にも及ぶ長距離移動の疲れ、白夜や食事など異国の慣れない環境、それに加え、当日の酷暑のために26~27キロ付近で意識不明となり落伍となりました。

ストックホルムで大敗を喫した金栗ですが、翌朝の日誌には「(前略)粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげむ」と新たな決意を綴っています。その後、金栗は23歳で結婚しますが、この時も結婚式から5日目には単身で東京に戻り、オリンピック制覇の宿願に専念するのでした。しかし、ランナーとして絶頂期にあり、「金栗の優勝は疑いなし」と期待された1916年(大正5年)の第6回オリンピックベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止。この悲運に金栗は無念の涙をのみました。

その4年後である1920年(大正9年)の第7回アントワープ大会(ベルギー)では、2時間48分45秒で16位。母イクエに宛てた手紙では「雨ふり寒く皆くるしみました。わたしもよく走りましたが練習中に足を痛め、一時6位にまで走ったが追い抜かれ16位になった。」と書いています。

大正13年(1924年)、パリ大会では33歳という年齢ですでにランナーとしては円熟期を過ぎており、32.3km地点で意識を失い途中棄権となりました。帰国後、第一線の選手活動を引退するのでした。 

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国内予選大会優勝カップと撮影ストックホルム大会ユニフォームユニフォームの表には日の丸
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ストックホルムに向けて福井の港から出発する一行(船とシベリア鉄道を経由して現地まで17日間の旅だった)

ストックホルム大会で「NIPPON」のプラカードを持って入場行進

ストックホルムの子ども達と
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アントワープ大会の写真アントワープ寄宿舎中庭にて

※パリ大会 選手と在仏日本人

金栗は現役中、非公認ではありますが通算3度の世界最高タイムを記録(25マイル)しております。

特に1911年のオリンピック国内予選大会では、当時の世界記録を27分も上回る大記録での優勝でした。当時のシューズは足袋であり、路面も悪い状況での大記録に周囲は驚愕しました!!!

1度目:1911年 オリンピック国内予選会(2時間32分45秒)

2度目:1913年 第1回陸上競技選手権大会(2時間31分28秒)

3度目:1914年 第2回陸上競技選手権大会(2時間19分30秒)

金栗は4大会連続でオリンピック日本代表選手として選出され、内3大会に出場しました。「金栗の優勝は疑いなし」と期待された第6回オリンピック・ベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止となり、金栗は無念の涙をのみました。
1912年 ストックホルム大会  意識不明により落伍

1916年 ベルリン大会(※第1次世界大戦で中止)

1920年 アントワープ大会   16位(2時間48分45秒)

1924年 パリ大会       意識不明により落伍

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金栗はストックホルム大会の大敗後、日本マラソン界の発展に尽力します。「オリンピックで日本を強くするにはマラソン選手の育成すること。一度にたくさんの選手を作るには、駅伝競走が最適だ。」と駅伝創設を呼び掛け、それに応じた早大、慶大、明大、東京高師の4校によって、1920年(大正9年)に「四大専門学校対抗駅伝競走」の名称で第1回大会が開催されました。これが新春の風物詩となった箱根駅伝のはじまりです。なお、この時、金栗は29歳であり、現役中に箱根駅伝を創設したのでした。

また、最も活躍した人に贈られる「金栗四三杯」。これは金栗が1911年のオリンピック国内予選大会で受賞した優勝カップを複製したものです。「金栗四三杯」には「世界に通用するランナーを育成したい」という金栗の想いが宿っています。

写真のカップは、オリンピック・ストックホルム大会の国内予選会で優勝した時のカップです。

このカップを複製したものが、箱根駅伝最優秀選手賞「金栗四三杯」として、箱根駅伝を駆け抜けたランナーに贈呈されています。

現在では、一般的となっている高地トレーニング。日本でこの高地トレーニングの元祖となったのが、金栗が始めた富士登山の合宿といわれています。その練習内容は、御殿場の駅から登山口の太郎坊を経て、頂上までの往復14里(約56キロ)の道のりを連日登ったり下ったりの猛練習でした。
日本一の標高差を誇る「富士登山駅伝」は、金栗が始めたこの富士登山合宿をヒントに始まったとのことです。
日本マラソン界発展のため、後世を鍛えることはもちろん、大会の創設にまで影響を与えるほどであった金栗。このことが「日本マラソンの父」と称される所以といえます。
 
グリコのゴールインする選手をイメージしたマークは、金栗四三がモデルのひとりと言われています。

和水町で毎年開催される金栗四三翁マラソン大会で、グリコの協賛をいただくようになったのもこのご縁からです。

 

 
 

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日本初の高地トレーニングを提唱※池部家の家族写真。妻スヤと母のイクエとともに。金栗は大正3年23歳で結婚しました。※下関-東京間約1200キロを真夏の7月20日から8月10日までの20日間で走破する偉業を達成しました。

 

当時の世界記録を27分も上回る大記録でオリンピックマラソンへの参加を決定付けた金栗。

しかし、開催地であるスウェーデン・ストックホルムまでの移動は、福井の敦賀港から船とシベリア鉄道を経由して往復4ヶ月の過酷な長距離移動でした。さらに現地は夜中も日が昇る「白夜」であったために十分な睡眠がとれず、また食も違い体調管理に苦労しました。マラソンの当日は金栗を送迎する車も来ず、走って競技場まで移動したそうです。競技中は最高気温40℃という酷暑で、参加者68名中およそ半数が途中棄権しレース中に倒れ、翌日死亡した選手もいるほどの過酷なレースでした。長距離移動の疲れ、異国の慣れない環境、そして、この酷暑のために、金栗は26~27キロ付近で意識不明となり、近くの農家に保護されました。

金栗が目覚めたのは大会が終わった翌日。金栗はレースを諦めそのまま帰国しました。マラソンレース中に消えた日本人は、スウェーデンの新聞に載るなど話題となり「のどかな農家のお茶会に参加し消えた日本人」として、スウェーデンオリンピックの語り草となり、有名人でした。

 


金栗は世界陸上競技史に類を見ないマラソンの大記録の持ち主でもあります。
1912 年のストックホルム大会で行方不明扱いとなった金栗ですが、月日は流れ、金栗が76 歳となる1967 年(昭和42 年)にストックホルム大会開催55 周年を記念する式典が開催されました。当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、金栗が「(棄権の意思が運営側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気が付き、金栗をゴールさせるため、記念式典に招待しました。金栗はそのことにとても感激し、喜んで参加したのです。

記念式典当日、大観衆の競技場を金栗が走り、テープを切ったとき「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54 年と8 か月6 日5時間32 分20 秒3、これをもって第5 回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
とアナウンスされました。これに金栗は「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、子ども6 人と孫が10 人できました」と答え、会場は大きな感動の拍手と歓声で包まれたそうです。

この記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録とされていますが、金栗が「レース途中で力尽きた自分を介抱してくれた地元の方々に感謝し、長年に渡って交流を続けてきた時間」であり、「オリンピックでの大敗の悔しさをバネに日本マラソン界の向上に尽力した記録」であるといえます。

 

rinnku箱根駅伝と金栗四三

 

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下関~東京間を20日で走破。残暑の中だったのでうしろにおおいのある帽子を尾道のあたりからかぶる※下関~東京間を走破した時のランニングシャツ・パンツ※パリ大会で激走

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金栗四三のパスポート

 

※富士登山駅伝競走の合宿(前列左から3番目)金栗足袋

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※東京オリンピックの会場となった国立競技場にて少年少女たちと※明治45年(1912)のストックホルム大会から54年余をかけてゴールを切ったシーン

 

 

 

金栗は現役中から、日本初の駅伝「奠都( てんと)50周年記念東海道五十三次駅伝競走(京都~東京)」や「東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)」の開催に尽力し、師範学校教師、熊本県体育会(現熊本県体育協会)初代会長、熊本県初代教育委員長など生涯にわたってスポーツの振興・発展に力を注ぎました。
金栗が生涯に走った距離は約25万キロ、地球6周と4分の1といわれ、金栗の残した有名な言葉として「体力、氣力、努力」がよく知られています。
熊本県の田舎・和水町に誕生した金栗は、ひ弱な幼少期を経て、「かけあし登校」でマラソンランナーとしての基礎を築き、上京後、その才能を発揮。「日本スポーツ界の黎明の鐘」となるべく、日本のオリンピックの扉を開き、大敗を喫しながらも日本マラソン界・スポーツ界発展のためにその生涯を捧げました。そして、昭和58 年11 月13 日、92 歳で文字通り駆け抜けた人生に幕を閉じました。
 

※のあるものは玉名市立博物館蔵

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